「ジョージ・ハリスン:ビートルズ以降 『静かなビートル』の慈愛」
ビートルズ最晩年にソングライターとしての才能を開花させたジョージ・ハリスン。ソロで発表したアルバムが大成功をおさめ、その地位を不動のものにする。一方、幅広い人脈をもってチャリティーコンサートも早い段階で成功させた。
盗作訴訟、親友であるエリック・クラプトンと妻パティとの三角関係事件などの試練を乗り越えて、晩年は趣味の合間にマイペースな音楽活動をおこなう。ガンによって58年の生涯を閉じた。
華々しいソロ・デビュー
ジョージは、ビートルズのメンバーだった時代、ジョン・レノンやポール・マッカートニーという巨大な二人の天才の存在によって、自作曲を発表するチャンスがなかなか与えられませんでした。
しかし、ビートルズの実質的なラストアルバムでは『サムシング』や『ヒア・カムズ・ザ・サン』という傑作を発表。世間はもとよりジョンやポールも舌を巻きました。
そしてビートルズ解散後に満を持して発表したソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』は、三枚組の超大作。
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長年書きためた曲を存分に放出し、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ビリー・プレストンなど親しい友人たちもこぞってセッションに参加したたこのアルバムは、各方面から絶賛の嵐。「静かなビートル」と呼ばれたジョージの想像以上に強力な作品に多くの人が目を見張りました。
『オール・シングス・マスト・パス』は、ヒットチャートも席巻しました。イギリスとアメリカの両方のチャートで1位を獲得。イギリスでは7週、アメリカでは8週もの間その座を守りました。
シングル・カットされた『マイ・スウィート・ロード』もイギリスで7週、アメリカで4週のナンバーワンを記録するという快挙。
ジョン・レノンは「ラジオのスイッチを入れたら必ずと言っていいほどジョージの曲が流れる」と半ばあきれた様子で語ったとのことです。
チャリティー・コンサートの成功
『オール・シングス・マスト・パス』の成功の余韻冷めやらぬなか、ジョージは、紛争や飢餓に苦しむ難民を救うために、義援金を集めるための大規模チャリティー・コンサートをおこないます。「ソロで最初に成功した元ビートル」となったジョージの自信も後押ししたのでしょう。
「ビートルズ時代にはいろいろ得るものがあったが、そのうちのひとつは大胆さだ。ジョンに影響されたと思う。ジョンは強く感銘を受けたらすぐに行動に出ただろ?」とジョージの弁。
ジョージは寸暇を惜しんで友人たちに電話をかけまくり協力をあおぎました。
リンゴ、クラプトン、プレストン、レオン・ラッセルなど、みんなが喜んでノーギャラの出演を快諾しました。ジョージの人脈の幅広さがうかがえます。
1971年8月1日、マジソン・スクエア・ガーデンで開かれたコンサートは大成功。チケット4万枚があっという間に売り切れ、コンサート当日まで出演があやぶまれたボブ・ディランも姿を見せました。
このようなチャリティー・コンサートは当時としては画期的なものであり、ロックコンサートにおいてもこうした社会性のあるイベントが成立することを世界に知らしめました。
新レーベル「ダーク・ホース」と北米ツアー
順風満帆なソロ活動を続けるジョージは、1974年5月にみずからのレコード・レーベル「ダーク・ホース」を設立します。販売契約を結んだレコード会社は、ジョージが所属していたEMIではなく、A&Mでした。この新レーベルの名前は、そのころジョージが制作していた曲名に由来しています。ジョージの話によると、ダーク・ホース(穴馬)は自分自身のこと、とのことです。
新レーベルの立ち上げに合わせて、ジョージは1974年11月からソロとして初のコンサート・ツアーをおこなうことを決めました。行く先は北アメリカ。ポール・マッカートニーの「ウイングス・オーバー・アメリカ・ツアー」に先駆けること一年半です。
11月2日ののバンクーバーから12月20日のニューヨークまで26都市45回のコンサートという過密スケジュール。プログラムの売り上げなどの利益は、各地の地元の病院やユニセフに寄付されました。
しかし、観客の反応は良かったものの、ジョージの声の不調・ビートルズナンバーの歌詞を変えて歌ったこと、共演者が一般にはなじみのうすいインド音楽だったことなどから、マスコミの反応は冷たく手厳しいものに。このときの経験によって、以後ジョージはツアーに対して消極的になっていきます。
盗作訴訟
ちょうどこの時期、ジョージの身の上に訴訟が持ち上がり、彼を悩ませることになります。
前述したメガヒット曲『マイ・スウィート・ロード』が、シフォンズのヒット曲『ヒーズ・ソー・ファイン』のメロディーを盗用しているということで、『ヒーズ・ソー・ファイン』の版権を持つブライト・チューンズ・ミュージック社から訴えられたのです。
1971年3月に最初の訴えが起こされ、示談交渉を試みるもうまくいかず、1976年に本格的な審理が始まりました。同年9月に出された判決では「意識的な盗作」とは認められなかったものの、「潜在意識における盗用」ということでジョージの敗訴となりました。
この件によってジョージはしばらくの間、作曲をする気になれなかったといいます。
ロック史上もっとも有名な三角関係
ジョージは、ビートルズ時代の映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』に出演していたパティ・ボイドに一目惚れして1966年に結婚していました。しかし1970年代に入ってからはすれ違いが多くなるように。
そんな中、事もあろうにジョージの親友であるエリック・クラプトンがパティに恋心を抱くようになるのです。
ジョージとパティは1974年に別居。パティはクラプトンと同棲生活を始めます。そして1977年には、ジョージとパティの間で正式に離婚が決定。パティは1979年にクラプトンと結婚します。
しかし、ジョージとクラプトンの友情は変わりませんでした。その後もミュージシャンとして共に敬い刺激し合う関係が続き、共演も多く果たしています。
ジョージは、パティとクラプトンの結婚披露パーティーに出席し、ポールやリンゴとともにジャム・セッションをおこなってもいます。
1978年、ジョージの生涯の伴侶となる、オリビア・トリニダッド・アリアスとの間に男の子が誕生。9月に正式に結婚しました。
趣味の世界
ジョージは、少年時代から車やモーター・スポーツが大好きでした。1970年代以降は、あちこちのF1グランプリ会場に出かけては観戦を楽しみます。
1979年のインタビューでは「ニキ・ラウダ(F1のチャンピオン・ドライバー)はただ、家に帰ってリラックスして、好きな音楽を聴いているときがいちばんいいと言っていた。そのとき思ったんだ。『こりゃすごい、曲が書けそうだぞ。世間は皆、俺をミュージシャンとして見ている。実際は何もせずブラブラしてるだけなのに。でも、ニキが休日に楽しんでくれるような曲なら作れるかもしれない』とね。そろそろ何かやったほうがいいなと思ったんだ」と述べています。
また、晩年に至るまでガーデニングにも力を入れ、オックスフォード州にある広大な邸宅、通称フライアー・パークの敷地内での庭仕事に熱中。庭園には珍しい植物が植えられ、フライアー・パーク内の様子は、アルバム・ジャケットやビデオ・クリップなどにしばしば登場しました。
苦難の時代とこの上ない幸せ
1980年12月8日、ジョン・レノンが射殺されたときにジョージは「僕はジョンが大好きだったし、尊敬していた。それは今でも変わらない」とコメント。
一方、自身のニュー・アルバムは、ジョンの五年ぶりのアルバム『ダブル・ファンタジー』が同時期に発売されることになり、レコード会社はジョージのアルバムの発売をずらすことにし、さらに収録曲が地味だという理由で、ジョージに四曲を差し替えるよう求めました。新曲が却下されるという屈辱を味わったのです。
業界のビジネスに振り回されることに嫌気が差したジョージは、しばらく音楽活動から遠ざかり、公に姿を見せる機会もほとんどなくなりました。
そんなジョージがようやく久々のナンバーワンヒットを飛ばすのが1988年。ニュー・アルバムに先駆けて発売したシングル『セット・オン・ユー』がアメリカの各誌で一位を獲得。『ギブ・ミー・ラブ』以来15年振りのことでした。続くアルバム・タイトルは『クラウド・ナイン』。「この上ない幸せ」を意味し、そのタイトルのごとくジョージは、最高の気持ちで第一線に復帰しました。
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最期の日々
1990年代には、クラプトンの誘いで日本でのツアーを成功させ、ボブ・ディランのデビュー30周年コンサートに出演し、改めて健在ぶりを示したジョージですが1998年、喉頭ガンの手術を前年に受けていたことを告白。それでも音楽制作に意欲的だった彼に1999年、邸宅に侵入した暴漢が襲われ刃物で刺されるという事件が起きます。幸い命にかかわる事態にはなりませんでした。
ポールとリンゴが揃ってジョージを訪れたのが2001年11月12日。三人で何時間も思い出話に花を咲かせます。ジョージは、終始明るく前向きだったと報道されました。ポールの回想によると、ポールはジョージの手を握り、涙をこらえきれなかったそうです。
11月29日午後1時30分、ジョージ・ハリスン死去。享年58。ジョージのなきがらは「大騒ぎになることを避けたい」というジョージの遺志により、他界を公表する前に荼毘に付されたといいます。
翌2002年1月には、追悼シングル『マイ・スウィート・ロード』が再発売され、オリジナル発売時以来31年振りに全英1位になりました。