「ジョン・レノン:ビートルズ以降 愛と平和を訴え続けた男の魂」
ビートルズ解散前に結婚したオノ・ヨーコとともに、類い稀な創作・パフォーマンスを始めたジョン・レノン。盟友だったポール・マッカートニーとの確執が続くも、アーティスト活動の中では前衛音楽の他に『イマジン』を代表とする平和賛歌などを手がけた。
ニューヨークを活動の拠点とするも、70年代後半は表舞台から距離を置いて主夫として育児に専念。1980年にミュージシャンとして再出発したが、狂信的なファンに射殺された。
「ソロ活動」はオノ・ヨーコとともに
ビートルズが実質上解散した1970年、ジョン・レノンは、1968年に結婚したオノ・ヨーコとともに結成したプラスティック・オノ・バンド名義でアルバム『ジョンの魂』をリリースしました。収録曲『マザー』では、「あなたは僕のものではなかった」というフレーズが使われています。
このアルバム制作前に、ジョン、ヨーコ夫妻はロサンゼルスに赴き、精神科医アーサー・ヤノフのもとで「原初(プライマル)療法」を受けています。この療法は、患者の記憶を幼少時代までさかのぼらせ、心の傷を過去に探り、人間本来の姿に戻って「原始的な叫び」を上げて感情をそのまま表現することで、精神的苦痛を和らげるというものです。
ジョンも医師のヤノフも「効果があった」と述べています。前述の『マザー』で子供の頃の傷を吐き出したジョンは、事故で母を失ったトラウマから抜け出すことができたのでしょう。
ジョンの最初の妻・シンシアは1歳年上で、続くヨーコは8歳年上。ジョンが言うには「ヨーコはもっと年上でもよかった」。ジョンは亡き母親ジュリアのイメージをヨーコの中に重ねていたのでは、という評論もあります。
ビートルズ最後のアルバムでポール・マッカートニーは「重荷を背負っていくんだ これから長い間ずっと」と歌いましたが、ジョンは『ゴッド』曲中で「ビートルズを信じない」と歌い全否定。唯一信じられるというヨーコとともに人生を歩んでいくと宣言しました。
名曲『イマジン』とポールとの「確執」
ジョンは1971年10月8日、アルバム『イマジン』を発表。イギリスとアメリカでともにチャート1位を飾ります。なんといっても同名のシングル曲は、ソロ時代のジョンにおける代表作かつ偉大な平和賛歌として末永く世界中で聴かれ、歌われることになります。
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ジョンは後年のインタビューで「『イマジン』を一日に二度歌ったことがあったけど、うんざりしたな。でも、もし自分が誰かのコンサートに行ったら、知っている曲を聴きたいと思うだろう。あの曲は本当に、すごく誇りに思っている」と語っています。
その一方で、このアルバムには、当時訴訟などで険悪な関係にあったポールに対する皮肉として『ハウ・ドゥ・ユー・スリープ(眠れるかい?)』も収録。「お前の功績は『イエスタデイ』だけだ」などとなじりました。
ポールはポールでジョンとヨーコへの皮肉を歌い、この「音楽を通じた喧嘩」ともとれるやりとりはしばらく続きました。とはいえ、ジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の人が悪口を言うのは許さない」というスタンスを持っていました。
「失われた週末」
イギリスを離れてニューヨークに活動拠点を置いたジョンとヨーコ。ジョンによれば「ニューヨークは世界中で最もホットな都市だ。物事が起こりつつあるのはここなんだ」。ニューヨークでもジョンとヨーコは精力的に活動しました。
しかし1973年秋に、ヨーコはジョンに別居を言い渡します。原因は諸説ありますが、アメリカ居住権に関するトラブルなどで自暴自棄になったジョンによってヨーコが傷ついたので、このままではお互いダメになるとヨーコが感じたため、といわれています。これが有名映画のタイトルをもじった、ジョンの「失われた週末」の始まりでした。
1973年9月18日、ジョンはヨーコの元を離れ、女性アシスタントのメイ・パンを伴ってニューヨークからロサンゼルスへ向かいました。ジョンがヨーコと離れたことにより、多くの音楽仲間がジョンの元を頻繁に訪れるようになります。
ジョンはこの時期、それまでの熱心な平和運動から一転、セッションやレコーディングを精力的におこなっています。しかし、後にメイ・パンが述懐するように「ニューヨークでは規律を守ってレコーディングしていたジョンは、ロサンゼルスでは他の連中とアルコールを飲んでいた」ということで、ジョンの生活は荒れに荒れました。ジョン自身も「どん底だった。ヨーコと別れて、毎日飲んだくれていた。本当に惨めだった」と振り返っています。
実はこの「失われた週末」の時期に、ジョンはポールと4年ぶりに再会しています。21世紀になってから明らかになった事実ですが、ただ会っただけではなく、セッションも楽しんだそうです。
妻・リンダを伴って現れたポールは、ジョンとはまるで一週間ぶりに会ったかのような雰囲気で昔どおりの関係に戻っていた、とメイ・パンは語っています。
主夫として
ジョンは1975年1月にヨーコと復縁して、ニューヨークに戻ります。そして同年10月9日、奇しくもジョンの誕生日に、二人の間に待望の子どもショーンが誕生します。
1976年1月にジョンのレコーディング契約が切れましたが、その後ジョンはどこのレコード会社とも契約しませんでした。
音楽活動を休止して、育児と家事に専念する主夫になることに。ビジネス関係はヨーコに任せるようになります。
とはいえ、主夫業に専念している間のジョンがまったく音楽を活動をしていなかったわけではなく、リンゴ・スターのアルバムに『クッキン』という曲を提供してスタジオに赴きピアノを演奏したり、自宅で曲作りをしてデモ・テープも残しました。この中にはが後に『ビートルズ・アンソロジー』シリーズで発表される『フリー・アズ・ア・バード』『リアル・ラブ』が入っていたのです。
復帰直後に非業の死
「音楽活動はショーンが五歳くらいになったら再開する」と決めていたジョン。
1980年、ショーンとともにバミューダに旅行をして、新曲をデモ録音します。そして8月から9月にかけて、本格的なレコーディングをおこないました。
同年10月17日に、実に五年ぶりのシングル『スターティング・オーバー』を発売。11月14日にはアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表し、ワールド・ツアーも真剣に考える対象になっていました。
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1980年12月8日月曜日。この日もジョンとヨーコは、レコーディングやインタビューなどの仕事が入っており多忙でした。
午前11時から午後にかけて雑誌『ローリング・ストーン』のためのフォト・セッション。午後2時からRKOラジオのインタビュー収録。
インタビューでジョンは「今まで僕が一緒に、一夜限りでなく仕事ができたアーティストは二人しかいない。ポール・マッカートニーとオノ・ヨーコだ。それは、最高に素晴らしい選択だったと思っている」と半生を総括。
さらに、同世代のリスナーにも語りかけました。
「歌を作り、歌い、録音しているとき、僕はいつも同世代の人たち、すなわち1960年代をともに生き抜いてきた人たちのことを思い浮かべている。若い人たちにも気に入ってほしいけど、僕はまず自分と一緒に育ってきた人たちに向けてこう言いたい。やあみんな、調子はどうだい? きみたちの関係はうまくいっているかい? うまく切り抜けてきたかい? 70年代はさんざんだったね。80年代はいい時代にしようじゃないか。それができるかどうかはぼくたち次第なんだから」。
そして「僕は死ぬまで自分の仕事が終わるとは思わない。死んで埋められてしまうのは、まだずっと先のことだと思いたい……」と締めました。
午後5時、自宅のアパートメント「ダコタ・ハウス」を出てスタジオに向かおうとするジョンに、眼鏡をかけた大柄な若い男が近寄り、ジョンに『ダブル・ファンタジー』のレコードを差し出しました。ジョンはそれを受け取り、サインします。ジョンは「これでいいかい?」と言って男にアルバムを返し、車に乗り込みました。ジョンは窓からにこやかに「じゃあね!」と手を振りました。
ジョンのスタジオでの仕事は、主にヨーコの新曲の仕上げミキシングでした。それを終えて午後10時半にスタジオを出発。ダコタ・ハウスへの帰途につきます。
午後10時50分。ヨーコとともに車を降りたジョンが管理人室のドアにさしかかろうとしたとき、突然後ろから「ミスター・レノン?」と呼びかけられます。
ジョンが振り返ると、わずか5メートルほどのところで男がかがみこみ、射撃態勢をとっていました。男はそのまま、ピストルをジョンに向けて5発を発射。ジョンは「撃たれた」とうめきながら床に倒れました。
急遽病院へパトカーで運ばれたジョンでしたが、午後11時15分、医師により死亡宣告を受けます。全身の血液の80パーセントを失ったショック症状が死因でした。満40歳没。
犯人は、夕方ジョンがスタジオへ行く前に『ダブル・ファンタジー』にサインをしてやった、あの若い男だったのです。警察は男を逮捕しました。
その後、ジョンのなきがらは、翌日午後2時頃、ニューヨーク郊外の葬祭場で火葬されました。
あまりにも早い死を迎えてしまったジョン・レノンですが、彼の音楽や平和への願いは長きにわたって全世界に影響を与えています。