「リンゴ・スター:ビートルズ以降 思いやり溢れるリズムを刻みつづける」
リンゴ・スターはビートルズきっての好人物で、彼がいなければ解散はもっと早まったとの見方さえある。「僕は誰とでも親友なんだ」という発言どおり、リンゴの元にはバックアップしてくれる著名ミュージシャンが多数存在。
ソロ・ヒットに続き俳優としても活躍するが、私生活では離婚や放浪生活、そしてアルコール依存症に悩むようになる。依存症を克服した後は、レコーディング、ライブともに復活。今もなおビートを刻み続ける。
ソロ活動の成功
リンゴ・スター(本名 リチャード・スターキー)は、ビートルズ解散の年となった1970年、ソロ活動のスタートとして2枚のアルバムを発表しました。
1枚目は『センチメンタル・ジャーニー』。前年からジョージ・マーティンのプロデュースでレコーディングを開始したこのアルバムは、リンゴが「自分の両親や祖父母が好きだった曲を歌いたい」という希望を語ったことがきっかけになり、音楽ファンにはおなじみのジャズのスタンダード・ナンバーが収録されました。
続く『カントリー・アルバム』では、リンゴ自身お気に入りのカントリー&ウエスタンに挑戦。これら2作ではドラムを叩いていないという説が有力です。リンゴは自分が心から楽しめる音楽を存分に歌いました。
ウォーミング・アップといえる2作を発表後、本格的にソロ活動の幕を開けた作品が、アルバム『リンゴ』です。リンゴのソロ・キャリアの中で代表的なものと言われることも多いこの作品はアメリカでチャート1位になるなど大ヒットを記録しました。そして最大の話題は、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンがそれぞれ曲を提供・演奏していることです。皆が一緒に演奏をしていないとはいえ、1枚のアルバムに四人が揃うのは解散後初めて。大きな反響を呼びました。
ビートルズの元メンバーだけではなく、ザ・バンドのメンバーやハリー・ニルソン、ビリー・プレストン、クラウス・フォアマン、ニッキー・ホプキンス、マーク・ボラン、スティーブ・クロッパー、トム・スコット、ボビー・キーズなど、多数のゲストがリンゴを支えており、1989年以降にリンゴが結成するオール・スター・バンドの原型となりました。
リンゴは、1974年2月までに発表したシングルとアルバムのすべてが、イギリスとアメリカともにトップテン入りしています。
俳優として活躍
ビートルズ時代に、すでに俳優として一目置かれていたリンゴは、1970年代に入っても映画出演を重ね、幅広い役柄に挑戦します。
西部劇『盲目ガンマン』(1971年)では、初の悪役にチャレンジ。フランク・ザッパとそのバンドを描いた『200モーテルズ』(1972年)では、ザッパ役を含めてひとり二役を演じました。
リンゴが俳優として最も評価された作品が『マイ・ウェイ・マイ・ラブ』(1973年)です。スターを夢見る1950年代の若者を主人公にしたこの映画で、リンゴはかつての自分と重なるような不良少年役を熱演しました。
離婚と放浪
1970年代のリンゴは、仕事の順調さとは裏腹に私生活では危機が襲っていました。
最初の妻・モーリーンとの仲は疎遠になっていき、1973年にかつてジョンが住んでいた邸宅を購入したときには、夫婦間の溝は埋めがたいものになっていました。
1974年になると、リンゴはモーリーンのもとを離れてロサンゼルスへ行き、同じく妻・ヨーコと別居中だったジョンやキース・ムーンらと一緒に酒びたりで大騒ぎをするようになります。
やがてリンゴは元モデルの女性と交際を始めてしまい、モーリーンとは1975年7月17日に正式離婚しました。独身生活に戻ったリンゴは、ロサンゼルスやモンテカルロを拠点に世界中を放浪するようになるのです。
再婚
1980年はポールが日本で大麻所持により逮捕され、ジョンが凶弾に倒れるという凶事が続き、ビートルズに関する人々にとっては悪夢の年でしたが、リンゴは、出演した映画『おかしなおかしな石器人』の撮影現場で翌年に正式結婚するバーバラ・バックと出会うという幸運に恵まれました。
リンゴとバーバラはロンドン郊外をドライブ中、交通事故に遭います。リンゴの運転していた車が横転する大きな事故だったのにもかかわらず、奇跡的に二人は軽症で済みました。リンゴはこのとき運命を感じ、結婚を決意したのです。
1981年4月27日の結婚式には、ポールとリンダ夫妻、ジョージとオリビア夫妻が出席し、リンゴとバーバラを祝福しました。
音楽活動の停滞
映画出演の機会が減り、リンゴの本業の音楽でも1970年代後半からヒット曲に恵まれなくなります。新作アルバム『オールド・ウェイブ』がイギリスやアメリカで発売されないという事態が起きました(ドイツや日本などでは発売)。
その後、しばらくリンゴは表立った音楽活動から離れて、あちこちのパーティーに出没する姿を目撃されるほうが多くなります。
「トーマスおじさん」に
1984年、リンゴは、イギリスのテレビ・アニメーション『きかんしゃトーマス』でナレーションをつとめます。これが大好評を博し、二年後には続編も作られました。子どもたちから「ビートルズのリンゴ」ではなく「トーマスおじさん」と呼ばれることになります。
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アメリカでは1989年に『トーマス』の実写版が作られましたが、そこにも車掌の役で登場しました。
アルコール依存症
1980年代半ばごろ、リンゴはスタジオでも絶えずアルコールを口にしていたため、まともなドラム・プレイができなくなっていました。
深刻なアルコール依存症。社会生活が困難になってきたリンゴは、次第に家から一歩も出られなくなりました。さらにはリンゴの飲酒を止めようとしていたバーバラまでもが同じような症状に陥ってしまったのです。
命の危機を感じたリンゴは、1988年10月、バーバラと一緒にアリゾナ州にある専門のリハビリ・センターの門を叩きます。そして二人で集中的な治療を受け、依存症を克服。晴れて全快したあとは、酒もコーヒーもタバコもやめました。
オール・スター・バンド結成
心身の健康を回復させたリンゴは、これはと思う友人に電話をかけまくります。ソロになってから一度も経験のなかったコンサート・ツアーに挑戦しようと思い立ったのです。
電話を受けたミュージシャンは皆、リンゴの申し出を快諾。リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドが結成されました。
1989年の夏から秋にかけて、オール・スター・バンドはアメリカと日本をツアーしました。
歌いたいときに歌い、ドラムを叩きたいときに叩くというスタイルを望んだリンゴは、ステージではバンド・メンバーにも各自のヒット曲を歌ってもらうことに。この方式は、オール・スター・バンドの基本コンセプトとしてその後も踏襲されていきます。
ロックの殿堂入り
解散から18年後の1988年、ビートルズは「ロックの殿堂」に名を刻むことになりました。リンゴはジョージ、ヨーコと授賞式に出席(ポールは欠席)。そしてリンゴ自身も、1994年のジョン、1999年のポール、2004年のジョージに続いて、2015年に個人としてロックの殿堂入りが発表されました。ちょうどビートルズを創始したジョンから最後にメンバー入りしたリンゴまで順番どおりの殿堂入りでした。
「ピース・アンド・ラブ!」
2018年現在、リンゴは元気にレコーディング、コンサート、チャリティ活動などをおこなっています。
「自分がミュージシャンだということに喜びを感じていれば、倒れるまでプレイできるはずだよ」と力強く語ります。そして、なぜリンゴはみんなから愛されるのか、という質問には「大それたことをやらないからなんじゃないの。僕が伝えたいのは『ピース・アンド・ラブ』、それだけだから。『ヘイ! ピース・アンド・ラブ!』。わかりやすいでしょ。それに『イエロー・サブマリン』の歌詞ならみんな知ってる。嫌いになる理由なんてある?」と明るく返答。
これからもリンゴは、優しさ溢れる笑顔を振りまき、熱いビートを刻み続けていくでしょう。