「ポール・マッカートニー:ビートルズ以降 世紀をまたいだ天才ミュージシャン」
結果的にビートルズの解散を公にする役目を引き受けたことになったポール。世界中から責められ、当時のソロ活動も不振を極めたが、妻であるリンダもメンバーに加えたバンド・ウイングスでヒットメーカーの地位を復活させた。
1980年は1月に日本にて大麻所持で逮捕され、12月は盟友だったジョン・レノンが殺害されるという最悪な年になったが、その後ソロに戻り、70代に至った今でもワールドツアーを精力的におこなっている。
ビートルズ解散訴訟
ポールは、いち早くビートルズ脱退を公表しましたが、バンドの存続を誰よりも願っていました。実際、先に脱退の意思を示したのはジョンのほうです。
しかし、ジョンとジョージとリンゴの三人のビジネス・マネージャーとしてアップルを支配していたアラン・クラインがビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』を優先させるために、発売予定の『ポール・マッカートニー』の発売を差し止める動きを見せたのが直接的な原因となり、悩みぬいた結果、ビートルズ解散を法的に成立させるための訴訟に踏み切ります。
ロンドン高等裁判所は1971年3月にポールの主張を認め、他の三人は上告を断念しました。
ウイングスの成功
すべての楽器をひとりで演奏したソロデビューアルバム『ポール・マッカートニー』、14曲中6曲で妻・リンダが共作者としてクレジットされたアルバム『ラム』を経て、ポールは念願のライブ活動を再開するために新しいグループを作ることにします。
まずはリンダにキーボードの演奏を教え、メンバーの一員にします(リンダは写真家としてはほぼ引退することに)。友人であり元ムーディ・ブルースのギタリスト、デニー・レインにも声をかけました。
バンド名が出来たのは、ちょうどリンダが三人目の娘を産んだときでした。ポールは「天使」という言葉から「ウイングス(翼)」を思いつきます。
そして1971年12月、アルバム『ウイングス・ワイルド・ライフ』を発売しました。後に何度も再編成されるウイングスですが、1973年にリリースしたアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』が1975年3月のグラミー賞で最優秀コンテンポラリー/ポップ・ボーカル賞と最優秀エンジニア賞を獲得します。そして翌年にかけておこなったワールド・ツアーでは、世界200万人の観客を動員して大成功をおさめるのです。
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1977年、シングル『夢の旅人』を発売すると、全英チャートで二ヶ月間1位を突っ走り、ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』が持っていた国内の売り上げ最高記録(160万枚)を抜いて200万枚が売れました。
1981年までウイングスを率いたポールは、バンドについてこう総括しています。
「僕の人生の中でも最も大きな闘いだったよ。ビートルズと肩を並べようとして無惨にも失敗した男として歴史に残る可能性だって十分あった。ビートルズと肩を並べようという思いは叶わなかったけど、僕は最終的に、それでもすごく成功したと感じている」。
なお、ビートルズの元メンバーは皆、マスコミなどから「ビートルズ再結成はあるのか?」という質問を繰り返されますが、ポールは「ビートルズを観たいならフィルムをどうぞ!」と答えていました。
1980年の悪夢
1980年は、ポールにとって忌まわしい大きな出来事が二つ起きました。
1月、ウイングスとして公演をおこなうために日本を訪れたとき、空港での手荷物検査で大麻が見つかりました。合計219グラム。現行犯で逮捕されたポールは身柄を検察庁に送られ、一週間あまり拘留されました。
その間、リンダをはじめウイングスのメンバーも取り調べを受けます。しかも、アメリカ・フロリダ州のマイアミ空港では、ポール救出のためにハイジャックを図った29歳の男性ファンが射殺されるなどの事件が起きました。
当然、日本公演は中止となり、この騒動はウイングスの活動が終わる遠因となるのです。ポールは「僕の人生で最も愚かな出来事」と述懐しています。
しかし、本当の悪夢は12月8日でしょう。
ジョンが自宅前で射殺されました。
訃報をマネージャーから聞いたポールは、ひどく混乱。ロンドンのスタジオに赴き、ジョージ・マーティンらとレコーディングを続けました。音楽を奏でることで悲しみを振り切るかのように。
事件後、数ヶ月の間は極度のショック状態に陥ったポール。ひたすらスタジオでのレコーディングに専念しました。
ジョンの死後に初めてリリースした『タッグ・オブ・フォー』と、次の『パイプス・オブ・ピース』は、ポールのアルバムとしては初めて、社会的メッセージをストレートに表現した作品になりました。
ポールは「声をあげろ! というジョンのささやきが聞こえてきたんだ」と語り、このあとも積極的にチャリティ活動への取り組み、社会に訴えかけるメッセージソング制作に力を注ぐようになります。
本格的ソロ活動と数々のコラボ
1970年代は意識的にビートルズから離れようという思いで活動してきたポールですが、ソロ・アーティストとして再出発したとき、プロデューサーとして迎えたのはジョージ・マーティンでした。ビートルズ時代のプロデューサーと本格的に組むということは、ようやくポールはビートルズ時代の自分を受け入れる余裕ができた、ということでしょう。
ジョージ・マーティンとの仕事を通じて、ポールはマーティンを「世界一のプロデューサー」と再認識。大きく満足したそうです。
そしてこのスタジオ・ワークではリンゴ・スターとも共演。リンゴのウェディング・パーティーにはジョージ・ハリスンとともに駆けつけ、ビートルズ時代の色々なトラブルを乗り越えて、三人揃ってセッションを楽しみました。
スティービー・ワンダー、カール・パーキンスなどともコラボレーションを果たし自由な創作活動をするポール。果てはマイケル・ジャクソンとも共作・共演します。特にマイケルが作った『ガール・イズ・マイン』での共演では、収録されたアルバム『スリラー』が史上最も売れたアルバムとなりました。
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エリック・スチュワートとの共作、ヒュー・パジャムとの共同プロデュースを経てエルビス・コステロともコラボします。コステロは、ポールを前にしても、お世辞どころか、遠慮もなく、アイディアが気に入らなければ「クズ」だと言い放ち、指図までしてきたといいます。しかしポールにとってそれは新鮮。ジョン・レノンとの関係を思い出させるものだったとのことで、二人の友情は続いているそうです。
リンダの死、再婚での痛手
動物愛護や菜食主義など、ポールに大きな影響を与え、ビートルズ以後のポールを支えた妻・リンダ。人生のすべてを分かち合う、理想の夫婦と見られた二人に別れの日が来ます。1995年、リンダの乳ガンが報じられました。
1998年4月17日早朝、リンダは、ポールと四人の子供たちに見守られて永遠の眠りにつきました。
ポールからリンダへの愛に溢れた追悼文には「30年間彼女の恋人であったことを、私は誇りに思います」とあります。
リンダが56歳で亡くなったあと、ポールは二度結婚しました。
二番目の妻となったのが、ヘザー・ミルズ。ポールの26歳年下。交通事故で左足のヒザから下を失った義足のモデルで、環境問題や地雷撲滅運動の活動家です。
しかし、ポールとヘザーの交際が報じられはじめたころ、アメリカのタブロイド紙は、ヘザーの初婚相手のインタビュー記事を掲載、こんな発言がありました。
「急いで逃げるべきだよ、ポール! 君の新しい恋人は、君の壊れやすいハートを打ち砕いてしまうよ。彼女が僕を打ち砕いたようにね」。
事態はまったくその通りになり、ポールとヘザーの間には、結婚から二年後には不仲説が流れ、その後結婚生活が破局したことを発表。離婚の手続きがとられました。
その後の離婚裁判は揉めに揉め、正式に成立するまで二年近くかかることに。特に慰謝料で揉め、ようやく裁判は決着。ヘザーは多額の慰謝料、資産、娘の養育費を受け取ることになりました。これにはさすがのポールも参ってしまったでしょう。
69歳のポールが三番目の妻に選んだのは、ナンシー・シェベル。運送会社の副社長で、ニューヨーク都市交通局の役員を務める資産家です。2018年現在、二人は問題なく愛に溢れる生活を送っているようです。
70歳を越えてもワールドツアー
21世紀に入った今でもポール・マッカートニーは、大規模なワールドツアーをおこなっています。ロンドンオリンピックの開会式で大観衆を前に『ヘイ・ジュード』を披露したのは記憶に新しいところです。
数十年にわたる菜食主義、華麗な女性遍歴など「ロック界の超人」として君臨する理由は様々挙げられますが、何といっても大きいのはポールの音楽への愛。「たとえ、誰も僕の曲をアルバムに録音する気がなくなったとしても、それでも僕は歌を書き続けるよ」と語っています。
これからも「生ける伝説」、そして今でも新作を意欲的に発表する「永遠のチャレンジャー」としてポール・マッカートニーの輝きは失われないでしょう。